| ■現代リベラリズムとは何であったか | 2008/02/18更新 |
盛山 和夫 一 今になって思えば、現代リベラリズム(従来のリベラリズムとは似て非なるもの。グレイのように区別しない論者もいるので注意が必要)は形を変えたポスト・モダンの現代思想であったようだ。むろん一方の旗手ロールズやドゥオーキンと他方のフーコーやデリダとは、基盤や背景になっている思想の系譜も明示的に語られている議論の中身も大きく異なる。何よりも文体に現れている思想の気分とでもいうべきものがまったく異質だ。両者は、ほとんどお互いを参照することなく独立に別々の思想空間で発生し展開してきたものである。しかし、両者がそれぞれ格闘した空間の位相構造はおそろしく類似している。フランス系現代思想が闘い、そこから脱出をはかったのは、マルクス主義という正統思想が高度産業社会の到来と構造主義とによって失脚させられた大空位状況である。それはリオタールの「大きな物語」の比喩が何よりも雄弁に明らかにしている。「知の考古学」とか「脱構築」とか、あるいは「シミュラークル」とか「逃走」とか「戯れ」とか、一見すると相対主義的で懐疑主義的な装いを示しながら、実のところ、亡命していた正統王朝を密かに復位させることが、その闘いの目標であった。 アメリカの現代リベラリズムにとっては、ローティの言う「改良左翼」の退位によって生じた思想空間の空位が問題であった。改良左翼とは、独立宣言、リンカーン、ウィルソン、ニューディールを経て公民権運動に至るアメリカ政治史の「大きな物語」をもとにして、アメリカという「選ばれた国」が人類全体にとって果たすべき使命への信仰から成り立ってきたものだ。それが、ベトナム戦争と学生叛乱とによって瓦解してしまった。見失われたアメリカの使命の再建、それが現代リベラリズムが達成をめざした課題であったと言えるだろう。 それぞれ、「大きな物語の崩壊」がこの二つの現代思想にとって共通の問題状況なのだが、それは同時に「多元主義」という社会的世界の現実に立ち向かわなければならないという課題の共通性でもあった。レヴィ=ストロースはあからさまにフランス正統派の西洋中心主義を攻撃していたし、アメリカにはもっとハッキリした現実の政治レベルで多元主義の挑戦が存在していた。 この多元主義への応答のしかたは、両大陸の現代思想の間で異なっているかのように見える。知の考古学や脱構築は相対主義的で、「正義」という一元的価値を奉じる現代リベラリズムとは明白に対立するスタンスを取っているように思われるかも知れない。しかし、フーコーにおける「身体」の表象(拙著『権力』参照)やデリダにおける「脱構築不可能なものとしての正義」の観念に明らかなように、フランス現代思想は「究極的な価値源泉」への絶対的信仰によって支えられている。それは単に、現代リベラリズムの「正義」ほどには前面に提示されて主題的に論じられることがないだけだ。 さて、J・ロールズが一九七一年に『正義論』を著したとき、上に述べたような状況がすべて彼の視野に入っていたわけではないだろう。しかし現代リベラリズムの幕開けを告げるその書は、ロールズの意図とは異なる読まれ方をした。ロールズ自身の書き方にも原因があるので、誤読というべきかどうかは微妙だが、少なくとも次の4点は指摘できる。原初状態の設定についての契約論的見解、内省的均衡の位置づけ、格差原理の解釈、「正義」の概念の理論上の意義、である。分かりやすく言えば、極端にカント主義的に解釈されたロールズ像が当初から通説として確立してしまったのである。 『正義論』の(見かけ上の)カント主義ないし契約論は、ベトナム戦争と学生叛乱によってアメリカ社会の道徳的アイデンティティの危機を感じていた人々にとって、「社会の道徳性」を再建するための極めて魅力的な理論的企てであるように思われた。実際、「正義は社会制度の第一の徳目である」という書き出しの文章から分かるように、この点はロールズ自身に自覚されていたことであった。 「社会の道徳性」という主題が理論的に明確に提示されたのは、これが最初だと言っていいかもしれない。むろん、それ自体は人間の知的活動が始まって以来、いつ何処でも問われてきたことであるし、とりわけホッブズ以降の近代社会思想の実質的な主題であり、啓蒙思想も功利主義も、いわんや社会主義もマルクス主義も、それを論じてきたものである。けれども、それらが払拭できなかった「自然主義的」で「還元論的」とでもいうべき思考パターンのために、「社会の道徳性」は何かより根源的な客観的真理によって導出されたり説明されたりすることができるものだと見なされていた。このことは、「社会の道徳性」を主題とする学問に固有の名称が確立していないことからも明らかだ。(日本語では「公共哲学」がそれをめざしているが、英語圏でPublic Philosophyの語は確立していないし、それに対応する学会組織は日本も含めて存在しない。) ついでに述べておくと、コント以来の社会学の主題は、本来的にはまさに「社会の道徳性」であった。それは、(ヴェーバーは価値自由をかかげて方法論的に禁欲したので目立たないが、)ジンメル、デュルケム、サムナー、クーリー、シカゴ学派、パーソンズを経て、今日のいわゆるコミュニタリアン派のベラー、エチオーニ、セルズニックなどの仕事から明らかだといえる。ただし、社会学もまた自然主義的思考から脱却することに失敗してきたし、経験科学としての純粋化をめざしたため、今日の社会学徒の多くはこの主題を忘れているか回避している。 さて、契約論的に見える原初状態の設定と「正義」概念を前面に押し出して、「社会の道徳性」を主題として提示した点において、ロールズ『正義論』は紛れもなく革新的であった。自然主義的ではない形で社会の自立した特性として社会の道徳性を定式化しようとしたロールズは、それを「自由で平等な諸個人が自発的にアソシエーションとしての社会的協働のしくみに参加するための公正な規範的な諸条件が確立していること」と概念化し、その諸条件をまとめたものを「正義の諸原理」と名付けたのである。ロック的ないしアメリカ独立宣言的な構図が見え隠れはするものの、この定式化は極めて独創的な着想だといえる。自発的に形成される社会的協働のしくみとしての社会が従うべき規範的原理の中身が「正義」である。これが「公正としての正義」と呼ばれるゆえんである。 ここにおいて、「正義」が社会の道徳性にとっての最高位の価値を表すものとして定位されていることが注目される。「正義Justice」という概念にそうした理論上の位置づけが与えられたのは、これが初めてである。ここから、現代リベラリズムを中心とする、社会の道徳性を主題とするロールズ以降の諸探究は、その主題をいちいち「社会の道徳性」などという迂遠の言葉づかいではなく、端的に「正義」という主題を掲げるようになった。むろんこれによって、「正義」概念には微妙な変質が生じたし、何よりもある種の絶対性が付着するとともに、理論構成のあり方を制約することになった。 いずれにしても、ロールズ『正義論』によってこそ、社会の道徳性を主題とするまったく新しい社会理論の学問潮流が出現したのであり、その中核になったのが現代リベラリズムである。その新しさはいくら強調してもしすぎることはないし、それは、アメリカの知識層にとっては、ベトナム戦争以降の失意を埋めて道徳的主体性を回復するための最も希望に満ちた理論プロジェクトだと受け止められたのだった。 二 現代リベラリズムの理論活動は「責任―平等主義」と「中立性原則」の二テーゼに焦点をおいて展開された。前者はいうまでもなくロールズの「格差原理」に端を発する平等主義を理論的に彫琢しようとする一連の試みである。後者はロールズ自身は曖昧な短い文章しか記していないが、ドゥオーキンとアッカーマンとによって表だって展開され、その後、リベラリズムの最も中核的なテーゼと見なされるに至ったものである。ドゥオーキンは両方について主導的な役割を果たしており、その意味では、道徳哲学者ロールズではなくて法哲学者ドゥオーキンこそが現代リベラリズムを代表する論者だといわなければならない。そして、このことが現代リベラリズムの方向性に大きく影響した。 ロールズ『正義論』への初期の論評は、原初状態の設定と並んで、格差原理に集中している。(渡辺(二〇〇〇)によって詳しい紹介がなされている。)格差原理は、その「正義の原理」の中の第二原理のさらにその一部をなすに過ぎないのだが、公民権運動、教育機会の平等、強制的バス通学、アファーマティブ・アクションなどを通じて、「平等」問題へ高い関心が寄せられていたためであろう。ただ、K・アローやJ・ハーサニのような錚々たる学者の論評であるにもかかわらず、その多くは格差原理の完全な誤解に基づいていた。アローは格差原理が資産の完全平等主義を意味していると受け取ったし、ハーサニは、財の追加的配分に当たっては常により貧しい者、より恵まれない境遇にいる者が優先されなければならないことを意味すると考えたのである。他の多くの論者は、彼らほど極端ではないが、格差原理は二つの社会状態を比較評価する際、それぞれにおける最も利得の低い者のどちらが利得が高いかという基準を採用するものだというマクシミン解釈を受け入れた。日本でも、佐伯胖『「決め方」の論理』(一九八〇)や鈴村興太郎『経済計画理論』(一九八二)などの社会的選択理論のテキストを通じて、その解釈が一般化していった。 これらはいずれも、ロールズが考えていたよりも強い平等主義の解釈であるが、おそらく『正義論』はそう誤解されることで大きなインパクトをもったと言えるだろう。そのことは、無知のヴェールがかけられた原初状態における選択という設定が極めて印象深かったために、ロールズの理論的構成のしかたは契約論的なリーズニングに基づいているという誤解が広まったのと同様である。この点についても、ロールズが考えていたことおよび実際に用いたものは、もっと穏当なものであった。 なお、私からみて、ロールズが格差原理によっていかなる平等主義を意味していたかについての正しい解釈は、いち早くドゥオーキンの短い文章(一九七七の第五章)に示されているし、理論全体の非契約論的性格については、比較的早くにローティが気づいている。格差原理によってロールズが言わんとしたことは、せいぜいのところ「社会制度の公正なあり方は、他の誰の利益でもなく、まさに生まれや才能や資源において最も恵まれない境遇におかれた人々の利益に照準して、その利益が最大になるようにアレンジされたものだ」ということにある。それはある意味で、「公正なものと見なしうる不平等」の条件であり、それゆえにこそ「格差difference」原理と名付けられたのだと見ることができる。ロールズにとっては、それが社会的協働への参加の公正な条件としての正義にかなったものであり、明らかに功利主義や完成主義とは異なる規範的主張なのであった。 いずれにしても、ロールズ『正義論』のインパクトはロールズの意図とは無関係に巨大な波となって広がっていく。アマルティア・センは「何の平等か?」という論文(一九八〇)において、人々の主観的効用に準拠する功利主義を「厚生主義」として批判する一方で、ロールズが外面的にのみ共通な尺度を持つ基本財での平等主義を考えている点を批判して、人々の「必要needs」を考慮に入れた「潜在能力の平等」を主張したが、これは、平等主義理論は何の平等を主張すべきかという新しい探求テーマの地平を開くものであった。それを受けて、責任―平等主義への道をブルドーザーのごとき馬力で切り拓いていったのが、ドゥオーキンの「平等とは何か」(一九八一)と題する一連の論文であった。それは現在『平等とは何か』(原題は『至高の徳』、二〇〇〇)という著作に書き直されて出版されている。ここでは基本的には市場主義的な「資源の平等」が謳われているのだが、同時に、センのニーズ論にならって、障害者への配慮をそこに織り込もうとする。そこで動員されるのが責任―平等主義の論理である。 「責任―平等主義」という言葉は私の意図的な誤訳で、英語では「Luck-Egalitarianism」、つまり「運―平等主義」である。簡単に言えば、個人に責任があって生じた不平等は仕方がないが、本人に責任のない不平等に対しては、社会が補償しなければならないという主張である。これによって、さまざまな境遇を仮想しながら責任や平等やあるべき補償などをめぐる一種の知的パズルを解く作業に、多くの論者が引き込まれていった。マルクス主義の陣営からも、従来の労働価値説に代わる新しい搾取概念の可能性を見出した論者たちが、分析的マルクス主義というラベルを付けて参入してきた。中でも、マルクス主義的数理経済学の泰斗、J・E・レーマーは『機会の平等』(一九九八、未邦訳)というあまり数学の難しくないコンパクトな書物を著している。 ただ、その後は責任―平等主義の倫理性について重大な疑念も提起されて、一時の熱い期待も萎んできたように思われる。 責任―平等主義には、現代リベラリズムの基礎づけ主義的特徴がよく現れている。それは、「責任のあるなし」という基底的な事実(と思えるもの)と「責任のある者が責務を負う」という自明な(と思われる)論理に訴えているのである。このように、現代リベラリズムは、普遍的に妥当するはずだと思われる根源的な規範的原理を探し当てて、そこから論理的に規範的命題を導き出そうとする理論戦略を極めて明示的に採用している。これは言うまでもなく、多元的な社会という現実を前にして、なんとか普遍的に妥当するような規範理論を構築しようとする企図にとって有効なものだと思われたからにほかならない。しかし実際には、「根源的に普遍的妥当性を持つ」などというものは存在しない。そのように想定されたものも、結局はそうではないことが判明していく。 必ずしも責任―平等主義の文脈にはとどまらないが、日本でも「責任」を根源的に位置づけることを通じて、規範的社会理論の革新を目指す試みが、瀧川(二〇〇三)や北田(二〇〇三)や成田(二〇〇四)などによって展開されており、そこでは、どういうときに誰に「責任」が生じるかについては何か客観的に決まっているはずだという想定のもとで、その「どういうときに誰にどのような」責任が存在するのかについて探求されているのである。しかし、「責任」なるものは、「義務」や「権利」と同じく、社会的に構成されたものなので、この探求はむなしい。そして、責任―平等主義のプロジェクトの論理的基盤は崩壊せざるを得ないのである。 三 「中立性」原則もまた、現代リベラリズムの基礎づけ主義的性格を如実に示している。これはドゥオーキンの一九七八年という早い時期の論文で「善き生の問題と呼ばれることがらについて、政府は中立でなければならない」という形で提示され、その後、アッカーマンによってもやや異なる形で定式化されたものである。日本でも井上達夫(一九九九)が「正義の原理は「善き生」の特殊構想に依存することなく正当化可能でなければならない」という「正義の独立性」を掲げている。「善き生の特殊構想」というのは、人々の個別的な「生き方」や「アイデンティティ」や「信念」のことであり、「善き生の問題」というのは、それらが人々や集団の間で多元的に異なっているという問題状況のことである。他方、政治権力はそうした異なる善き生の構想を抱いている多様な人々に対して、共通にかつ強制的に働きかける。現代リベラリズムは、その際、政治権力の働きは「中立」でなければならないと主張するのである。これもまた、多元的な社会において異なる文化や生き方に対する「平等」の配慮をめざすことによって、普遍的に妥当する規範的原理であることを意図した主張内容になっている。 厳密に言えば、アッカーマンや井上は、政治権力の「正当化の理由」を問題にしているのであって、その働きやそれによってもたらされる帰結の中立性を主張しているのではない。この点は、リベラリズムの論者からしばしば強調される。実際、どんな政治権力も結果においてどれかの善き生の構想にとって有利に働き、他に対して不利になるというような事態を生じさせざるをえない。日本語が公文書や公教育での使用言語とされているところでは、日本語文化にとって有利で韓国語やポルトガル語の文化にとって不利であることは否めないし、政教分離の原則が国家宗教の樹立を望む宗教的信念にとって不利であることは明らかである。しかし、「正当化の理由」としての中立性は、そうしたことを正義にもとるとして非難するのではない。現代リベラリズムといえども、政治権力が結果において中立であることはいかなる社会においてもまず不可能だとは考えているのである。 しかし、このように「正当化の理由」に限定することで、「中立性」原則が維持できると考えるのは、あまりにも素朴すぎると言わざるをえない。なぜなら、そこでは「正当化が成功する」ことそのものの文化的拘束性というものが、まったく視野に入っていないからである。 ロールズを含めて、現代リベラリズムは規範的主張や規範的制度が「justifiable」であるか否かでもって、その妥当性の判断を与えようとする傾向がある。「正当化できる」ということは、「正当なものであることが論証できる」ということであり、「Aが論証できる」ということはすなわち「Aだ」と考えているのである。しかし、周知のように数学でさえ、定理の論証可能性は公理系の設定に依存している。ましてや、公理系に対応しうる共通の基盤を設定できるような状況から遙かに遠く隔たった地平にいる規範的社会理論の討議空間において、「正当化できる」とか「論証できる」というような概念に訴えても、何の意味もない。端的に、それは存在しないか、たとえ存在しても、そうだと同定できないような事態なのである。 逆に言えば、もしもかりに「正当化できる」という事態が事実上起こっているとしたら、それはあくまで「ある特定の文化的前提」のもとにおいてでしかない。それは、現代リベラリズムが想定している普遍的正当化とはほど遠い事態なのである。そして、現代リベラリズムが自らを「正当化できている」と思っているとしたら、それは、現代リベラリズムというある特定の文化的信念の内部での自己表象に過ぎない。今日において、「リベラリズム」系と目されるさまざまな政治的主張がしばしば「帝国主義」的に映り、実際そうであることが多いのは、そのためである。 拙著でも述べたことだが、「正義」とは現代リベラリズムの普遍の帝国が奉戴する唯一神の呼び名である。それは、帝国内の文化的多元性を超越して統合する至上の価値を表している。もっとも、ロールズ自身はこれほどの超越性を正義概念に付与するつもりはなかっただろう。しかしその『正義論』に触発されて展開されていった現代リベラリズムはロールズの意図を超えて、中身は何であれ、多元性を超越して普遍的に妥当する規範的価値の究極因としての「正義」を奉戴する宗教運動へと進化していったのである。 現代リベラリズムにおける基礎づけ主義的な理論構成の傾向は、リーズニングの仕方として司法モデルを採用していることにも根ざしている。司法というものは、提起された争点に対して「何が合法か」「どこに権利があるか」についての特定的な判断を下さなければならないが、その際、その判断を「正当化する理由」が示される。それは通常、成文法の規程であったり、過去の判例であったりするのだが、時には「生存権」や「プライバシー権」のようなものや「公共の福祉」や「公序良俗」、さらには「自然権」「公正性」であったりする。このような場合には、「正当化する理由」の「根拠」らしきものは、明らかにそこで新しく創造され、もっともらしい恭しさでもって提示されるのである。現代リベラリズムはこのリーズニングの様式にならい「正義」や「責任」や「中立性」を恭しく掲げて規範的理論を構成しようとしたのである。しかし、司法判断にはいつも異論があり、リーズニングが正当でないという意見が常に存在しうる。ただ、司法制度という権力装置のもとで、異論には実効性が与えられないだけだ。 何らかの疑いえない普遍的に妥当する規範的原理を探し出して、その基盤から、個々の社会制度や規範やあるいは規範理論に対して「正義にかなっている」か「かなっていないか」の判定を下すことができるのではないかという現代リベラリズムの夢がかなえられることは絶対にないのである。 私は、もともとのリベラリズムとは、社会の多元性という現実を前にしたときに、何か単一の原理でもって裁断しようとするのではなく、異なる文化、生き方、価値をお互いに尊重しつつ内省と熟慮と辛抱強い討論とを通じて、共通に奉じうる了解と価値とを新しく創造していこうとする態度を意味していたのではないかと考えている。現代リベラリズムは、それからはほとんど対極に位置するものになってしまったように思われる。 (盛山 和夫・せいやま かずお) 東京大学大学院人文社会系研究科教授、博士(社会学) |
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